Vol.06 父の死と初ライブ

一人だった。孤独だった。何の伝手もなかった。大きくて決して届きそうにない無謀とも言える夢に立ち向かうという決意だけで生きていた。柄でもないが作曲の仕方だったり音楽の基本だったりをやみ雲に独学でコツコツ勉強するしかなかった。
近くのコーヒーショップでギター1本で弾き語りをやったりしたが「声がでか過ぎるから小さくしてくれ」なんて言われて頭にきてもっとでかい声で歌ったりして挙句の果てに客と乱闘して店を追い出されたりした。 「今はこんなだけどいつかはきっと僕の歌を認めさせてやるぞ。」
と、そんなマンガみたいな日々が続く中、突然電話が鳴った。
受話器の向こうは、後にレッズを組んで日本中を暴れまくることになる盟友木暮武彦ことシャケだった。
当時、彼はプロになるという夢をすでに勝ち取りレベッカというニューウウェーブのバンドで人一倍がんばっていた。
そのシャケが何だか元気がなさそうだった。話をしてみるとバンドがうまくいってないらしい。ロックミュージックに対するこだわりがあるシャケと、ノッコ中心の売れ線を求める事務所との軋轢に悩んでいた。
古くからの友達でもある僕がシャケの家に遊びに行った時にはもうすでに事務所を止めることが決まっていた。
「また一緒にバンドをやらないか」と誘われた。僕の読んでいた謝世輝の願望をかなえるための本「信念の魔術」にも書いてあったけど自分が真剣に何かを成そうとする時、必ずそれを助けてくれる、導いてくれる誰かが現れるという。
まさしくシャケは僕が夢に向かって進むためのパートナーとして申し分のないものだった。
日本一のロックバンドを作りたかったシャケと、もうすでに親のあとを継ぎ公務員になるということをはっきりと拒絶して、暗い夜の陸橋から見える星空をスポットライトに変えたかった僕の進むべき道は一緒だった。
そしてベースのキヨシ、ドラムのコンマが集まり4人のバンドが出来た。バンド名はレベッカ♂。(というのもレベッカという名前はシャケが考えたものであったが脱退ということで事務所に奪われてしまったからだ。)
その経緯を知っていた僕は「レベッカ♂でもいいよ。」と答えていた。昔から歌が歌えればバンド名や細かいことにはこだわらない性格っていうことでもあったし。ともかくみんなバンドに飢えていたかのように、特にアマチュアだった僕とキヨシは初ライブへ向けて猛特訓の毎日が続いた。

レベッカ♂の初ライブ渋谷エッグマンへ向けて業界関係者もたくさん招待してる。せいぜい新宿ロフトのアマチュアバンド達とのステージぐらいしか経験がない僕は興奮していた。
その頃僕が歌を歌っていくことでいつも確執となっていた親父は定年でしかもパーキンソン病と診断され家にこもっていた。体が弱くて神経質で口うるさくて笑いもしない堅物の親父が僕は大嫌いだった。今ではパーキンソン病のせいで手足の自由が利かなくなり貴重面な性格が災いしてますます弱気になっていた。
バンドの練習に行くまでの時間は母が公務員で働いていたためにいつも二人でいた。今までだったら僕が歌を歌うという夢に対して喧嘩になっていたはずなのに親父にはもうその元気さえもなくなっていた。
「豊が思うようなバンドが組めてよかったな。」
二人の確執は少しずつ打ち解けていた。 そんなある日、怒涛のごとく続くバンド練習の前の昼下がり、親父が突然「豊、寿司でも食べよう。」てな感じで昼間から寿司をとって二人で食べたその後、「豊、何故、外が真っ暗なのに雨戸を閉めないんだい。」なんてすっとんきょなことを言って来た。
しかしその頃の親父はパーキンソン病のせいでいつも可笑しなことを言っていたんでいつものことと思っていた。
手が動かない親父の頭にヘアトニックをつけてやってマッサージしてのんびりしてた矢先、突然、親父が倒れた。
いつものことだろうと思い布団を敷いて寝かせた。
僕の手の中で安らかに眠ったように思えたがそれが親父の最後の姿だった。 あまりにもあっけなくて何が起こったのさえ分からなかった。

歌を歌うことを仕事にしたいという僕の生き方に1から10まで反対していた親父。
大正生まれで下着にはふんどしを着けてただまじめに働くことだけがとりえだった親父。
雨の日も風の日も弱い体を引きずって家族のために埼玉から二時間かけて目黒区役所へ通っていた。
曲がったことが嫌いで世の中の悪を憎み福祉の仕事を進んでやっていた親父。
そんな親父が嫌いなんかじゃなくて大好きだったということを皮肉なことにもこの世にいなくなってから始めて分かったなんて。

時は1985年4月8日渋谷Egg Manでの初ライブは今にも始まろうとしていた。